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北条義時、大江広元と協力し和田義盛の反乱を鎮圧「日本外史」のうち「北条記の巻」江馬細香・自筆・茶道9B

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北条義時、大江広元と協力し和田義盛の反乱を鎮圧「日本外史」のうち「北条記の巻」江馬細香・自筆・茶道9B

商品説明出品した古筆は、巻四「源氏後記・北条氏」の原文です。「日本外史・巻四」は、鎌倉幕府2代執権「北条義時」を中心に記しております。隷書体による「日本外史」江馬細香・自筆自筆下部に江馬細香の落款(印譜)「細香」と「湘夢」がある。2つとも細香の落款自筆上部に緒方洪庵の所蔵を示す「適々齋」の落款(印譜)がある。(自筆の凹凸はストロボの反射によるものです。)「額縁入自筆原本」上記額は、海外展示の際に用いられた額です。「自筆原本」原本下部の2つの印は、江馬細香の「細香・湘夢」の落款。上は、緒方洪庵の「滴々斎」の落款。《江馬細香・自筆「日本外史」北条記》原本の来歴及び国内所蔵数については下記に記載「日本外史」は、「女文字」による精密な「隷書体」で記されております。隷書体の「日本外史」は日本国内では本自筆のみです。「日本外史」は、白河藩主・松平定信に献上され自筆の序文冒頭には、「上楽翁(松平定信)公書」、末尾には文政十年(1827)5月21日、序文の下に大垣藩医・江馬蘭斎の娘・細香の号である「湘夢」の押捺がある。自筆は「極細」の筆が用いられており、正確で精緻な筆の運びが「芸術的な領域に達している」としてアメリカでは高く評価されている。海外展示に際し、断層写真により分析されております。原本を分析・解析するために海外の研究機関において「断層(MRI)写真」撮影等による新技術による分析・検査・証明が行われた後、一般の展示に付されたものです。出品した自筆は、アメリカで撮影された下記「断層(MRI)写真」においてわかる通り、微細な曲線をも精緻に描いた極めて美しい芸術性の高い日本語の優れた文字としても高い評価を受けております。上から3番目の写真は、科学的で客観的な分析データを重視するアメリカの航空宇宙局(NASA)の技術による「断層(MRI)写真」です。「断層(MRI)写真」によって、古切の書の詳細を知ることができます。NASA(アメリカ航空宇宙局)の優れた技術である「断層(MRI)写真」撮影を通して、日本の優れた伝統技術をアメリカ国内において広く知らせているものです。(Ⅰ)・出品した原本の「漢文」は次の通りです。《日本外史 巻之四 源氏後記 北条氏》《徙於》・・・・賴朝影堂。令長子泰時將兵防之。次子朝時。與義盛子義秀。被創。義盛兵乘勝而進。呼聲震天。申而戰。見星未已。泰時督戰。身先士卒。黎明。卻義盛兵。自阨衢路。遣足利義氏追之。敵兵復振。義時與廣元連署。令武藏相摸諸國來援。敵驍將土屋義清中流果矢。敵兵大沮。義盛以下敗果。泰時獻首虜。置酒勞諸將士。謂之曰。吾不復飲酒。疇昔與宴。其明亂作。吾甲上馬。而宿醉未醒。吾意自今禁飲。已而戰數十合。而索水。葛西六郎執進酒。我輒飲之。甚矣。吾無常操也。吾不復飲也。已而論功行賞。泰時辭賞曰。漢文の文責・出品者注記・漢字が難字(旧字)の場合、システムの関係でエラーとなり画像に反映されない場合があります。その場合、空白となりますが落札の際に出力文を交付いたします。「原文の読み下し文」と「現代語訳解読文」は、漢文の文字(難字・旧字)を正確に反映しております。(Ⅰ)・出品した原本(漢文)の「原文の読み下し文(解読文)」は次の通りです。《日本外史 巻之四 源氏後記 北条氏》《大江(おおえ) 広元(ひろもと) と、実朝を奉じて、》・・・・・頼朝の影堂に徒し、長子泰時 をして、兵に将として之を防がしむ。次子頼時、義盛の、子義秀(よしひで) と闘いて、創を被る。義盛の兵勝に乗じて進む。呼声天に震う。申にして戦い、星を見るも未だ已まず。泰時戦を督し、身、士卒に先だつ。黎明、撃ちて義盛の兵を卻く。自ら衢路を阨し、足利(あしかが) 義氏を遣して、追いて之を撃たしむ敵兵復振う。義時(よしとき)、広元(ひろもと) と連署して、武藏・相模の諸国をして来り援けしむ。敵の驍将土屋(つちや) 義清流矢に中りて撃たる。敵兵大に沮み、義盛(よしもり) 以下敗走せり。泰時、首虜を献じ、置酒して諸将士を労う。之に謂いて曰く、「吾復酒を飲まず。疇昔さを与にし、其の明乱作る。吾、甲を貫きて馬に上る。而して宿酔未だ醒めず。吾意うに、『今より飲を禁ぜん』と。已にして戦うこと数十合、渇して水を索む。葛西六郎(かさいろくろう)、盃(さかずき)を執りて酒を進む。吾輙ち之を飲む。甚だしいかな、吾の常操無きや、吾復飲まざるなり」と。已にして、功を論じ賞を行う。泰時、賞を辞して曰く、・・・・《義盛 反心無し。独り臣の父を恨むるのみ》漢文の読み下し文の文責・出品者(Ⅰ)・出品した原本(漢文)の「原文の現代語訳文」は次の通りです。《日本外史 巻之四 源氏後記 北条氏》《北条義時、大江広元と協力し和田義盛の反乱を鎮圧》《武装はせずに幕府へ向かい、大江広元と共に、実朝を連れて、》・・・・頼朝の遺影を安置したお堂にこれを遷し、長男泰時に命じて、兵の将として和田氏の兵を防がせた。義時の次男朝時(ともとき)が、義盛の子義秀と闘い、負傷した。義盛の兵は、勝った勢いに乗って進んだ。叫び声が天を震わせた。午後四時頃から戦い、星が見えてもまだ終わらなかった。泰時は、戦を指揮して、自身が士卒に先立った。夜明け頃、撃って義盛の兵を退けて、自ら主要な十字路を食い止めて、足利義氏(よしうじ)を遣わし、義盛の兵を追撃させた。その内に、敵兵は、再び勢いが振った。義時は、広元と連名で書状を作り、それを武蔵・相模の武士に回して援けに来させた。敵の驍将(ぎょうしょう)土屋義清が、流れ矢にあたって撃たれた。この為、敵兵は、大いに士気が下がり、義盛以下が、敗走した。泰時は、首領と捕虜を献上して、酒宴を設けて諸将士をねぎらった。泰時は諸将士に言った、「吾は、二度と酒を飲まない。前夜、宴会に参加して、翌朝、乱が起きた。甲を着て馬に上ったが、酔いが醒めてなかった。その時に、今から禁酒しようと決心した。その内に、数十合戦って、喉が渇いたから水を求めた。葛西六郎が、杯を取って酒を注いで進めたので、直ぐにこれを飲み干した。酷いものだ、吾の普段からの節度の無さは。吾は、もう二度と酒を飲まない」と。間も無く、論功行賞が行われた。泰時は褒賞を辞退して言った、備考1・大江広元は源頼朝の側近。備考2・大江広元、北条義時、和田義盛は「鎌倉殿13人」のメンバー現代語訳の出典・「日本外史」訳・頼惟勤・お茶の水女子大学名誉教授(1922~)「自筆の断層(MRI)写真」(断層画像MRI-4-9-B)「細香・湘夢」の2つの印は、江馬細香の落款。「序文の記載年号、落款、花押、及び隷書体の資料」写真右から隷書体の「曹全碑」写真。右から2番目は、序文末尾の拡大写真。日付左の印は、大垣藩医・江馬蘭斎の娘、江馬細香の号である「湘夢」の落款。右から3番目は、序文末尾に記された「文政十年(1827) 5月21日」の日付。その左が「湘夢」の落款。右から4番目が巻十六末尾下の「細香」の自筆署名と「湘夢」の落款。左端は、江馬細香・自筆の評価額・出典・「美術年鑑」古美術名家撰851頁(美術年鑑社・刊)「額縁裏面ラベルと巻四冒頭の落款」上の写真は額縁裏面のラベル 下の写真右端は巻四冒頭の部分下の写真左のうち上段は緒方洪庵の号「適々齋」下の写真左のうち下段は仙台藩の家紋竹に雀の落款「美術年鑑の評価額」「江馬細香の肖像と自筆」上の写真は、江馬細香の肖像。手前が細香、右上が紅蘭(原図は江馬家所蔵)下の写真は、江馬細香の自筆の詩稿、三十九歳の時の漢文。校正個所は頼山陽

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