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【NHK大河ドラマ】徳川家と前田家の和解・茶人・江馬細香(大垣藩医・江馬蘭斎の娘)「日本外史」自筆3B

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【NHK大河ドラマ】徳川家と前田家の和解・茶人・江馬細香(大垣藩医・江馬蘭斎の娘)「日本外史」自筆3B

商品説明隷書体による「日本外史」江馬細香・自筆自筆下部に江馬細香の落款(印譜)「細香」と「湘夢」がある。2つとも細香の落款自筆上部に緒方洪庵の所蔵を示す「適々齋」の落款(印譜)がある。江馬細香と茶会の掛軸について江馬細香の書は、茶会・茶席において「掛軸」として仙台藩等において利用されておりました。現代においても茶会や茶席で利用されております。ちなみに平成29年4月16日(日)金沢三渓園鶴翔閣において金沢煎茶茶道会協会主催の慈善茶会において掛軸が江馬細香・書画の「春蘭」が飾られその様子はBSジャパンでテレビ放映されました。「江馬細香の掛軸利用の茶会」をご覧ください。現在でも江馬細香・自筆「日本外史」は茶会で用いられております。「額縁入自筆原本」出品した額は、海外展示の際に用いられた額です。(自筆の凹凸はストロボの反射によるものです。)「自筆原本」原本下部の2つの印は、江馬細香の「細香・湘夢」の落款。上は、緒方洪庵の「滴々斎」の落款。《江馬細香・自筆「日本外史」徳川家康は伏見城で豊臣秀吉に代わり天下の政治を執り行う》原本の来歴及び国内所蔵数については下記に記載「日本外史」は、「女文字」による精密な「隷書体」で記されております。隷書体の「日本外史」は日本国内では本自筆のみです。「日本外史」は、白河藩主・松平定信に献上され自筆の序文冒頭には、「上楽翁(松平定信)公書」、末尾には文政十年(1827)5月21日、序文の下に大垣藩医・江馬蘭斎の娘・細香の号である「湘夢」の押捺がある。自筆は「極細」の筆が用いられており、正確で精緻な筆の運びが「芸術的な領域に達している」としてアメリカでは高く評価されている。海外展示に際し、断層写真により分析されております。原本を分析・解析するために海外の研究機関において「断層(MRI)写真」撮影等による新技術による分析・検査・証明が行われた後、一般の展示に付されたものです。出品した自筆は、アメリカで撮影された下記「断層(MRI)写真」においてわかる通り、微細な曲線をも精緻に描いた極めて美しい芸術性の高い日本語の優れた文字としても高い評価を受けております。上から3番目の写真は、科学的で客観的な分析データを重視するアメリカの航空宇宙局(NASA)の技術による「断層(MRI)写真」です。「断層(MRI)写真」によって、古切の書の詳細を知ることができます。NASA(アメリカ航空宇宙局)の優れた技術である「断層(MRI)写真」撮影を通して、日本の優れた伝統技術をアメリカ国内において広く知らせているものです。(Ⅰ)・出品した原本の「漢文」は次の通りです。《日本外史 巻之二十一 徳川史氏正記》《亦》・・・・兼程至。内大臣延正信問謀。且曰。三中老調停尋盟。要我於大坂。可往否。正信曰不可。因問曰。淺野彈正近爲何。曰。亦負平生。久不來此。正信赴淺野氏。與來。内大臣讓曰。吾與子親日久。太閣之喪。治部猶訃於我。子何獨欺我乎。彈正少弼始知爲三成所賣。流涕陳謝。自是益傾心焉。而三成等務推戴前田氏。勸除德川氏。利家嗣子利長密告之細川忠興。忠興曰。吁。子亦爲治部所欺也。利長色變。忠興曰。子悔告我乎。前田氏存亡。將決於此。不敢不忠謀。生死必與子。子勿憂。利長大悟曰。微子。我殆不免。請煩・・・・《子諫家君。》漢文の文責・出品者注記・漢字が難字(旧字)の場合、システムの関係でエラーとなり画像に反映されない場合があります。その場合、空白となりますが落札の際に出力文を交付いたします。「原文の読み下し文」と「現代語訳解読文」は、漢文の文字(難字・旧字)を正確に反映しております。(Ⅰ)・出品した原本(漢文)の「原文の読み下し文(解読文)」は次の通りです。《日本外史 巻之二十一 徳川史氏正記》《適々税を監して西上し、》・・・・亦た程を兼ねて至る。内大臣、正信を延きて謀を問い、且つ曰く、「三中老、調停して盟を尋め、我を大坂に要す。往く可きや否や」と。正信曰く、不可なり」と。因りて問いて曰く、「浅野弾正は近ごろ何の状を為す」と。曰く、「亦だ平生に負きて、久しく此に来らず」と。正信即ち浅野氏に赴き、与に偕に来る。内大臣責めて曰く、「吾と子と親呪すること日久し。太閤の喪、治部猶お我に訃す。子何ぞ独り我を欺きしや」と。弾正少弼、始めて三成の売る所となるを知り、流沸して陳謝す。これより益々心を傾く。而して三成ら、務めて前田氏を推戴し、徳川氏を除かんことを勧む。利家の嗣子利長、秘かに之を細川忠興に告ぐ。忠興曰く、「呼。子も亦だ治部の為に欺かるゝなり」と。利長、色変ず。忠興曰く、「子、我に告ぐるを悔ゆるか。前田氏の存亡、将に此に決せんとす。敢て忠謀せずんばあらず。生死必ず子と倶にせん。子憂うる勿れ」と。利長、大に悟りて曰く、「子無かりせば、我れ殆ど免れじ。請う、子を煩さん。漢文の読み下し文の文責・出品者(Ⅰ)・出品した原本(漢文)の「原文の現代語訳文」は次の通りです。《日本外史 巻之二十一 徳川史氏正記》《徳川家康は伏見城で豊臣秀吉に代わり天下の政治を執り行う》《石田三成配下の諸老と奉行、徳川家康に政権の座から降りるよう勧告》《徳川家と前田家の和解》《本多正信・伊奈忠次は、年貢取り立てのためにたまたま西上した。》・・・・・・これもまた、二日の行程を一日ほどでやって来た。 徳川家康は本多正信を召し寄せて、計を問うた。そして徳川家康がいうには(徳川家康)「三中老は仲裁するから誓いをせよといい、大坂ではわれが行くのを待っているという。行くがよいか、行かぬかよいか」と。本多正信がいうには「行ってはなりません」と。そこで、本多正信が徳川家康に問うていうには「近頃、浅野長政はいかがでございます」と。 徳川家康がいうには(徳川家康)「彼はいつもと違って、長い間ここへやって来ない」と。 本多正信はすぐに浅野長政のところへ行き、一緒に連れて来た。 徳川家康が浅野長政の不埓を責めていうには、(徳川家康)「私と貴公とは、今まで長い間、親密な間柄であった。太閤が死去されたことを、治部(石田三成)でさえおれに告げてくれた。それなのに貴公は、なぜおれを欺いたのか」と。浅野長政はこのとき、はじめて石田三成に煽(だま)されたことを知り、涙を流して詫びた。その後は、心底から徳川氏に付き従った。 石田三成らはできるだけ前田氏を持ち上げて、徳川氏を滅ぼすよう勧めた。[徳川家康と前田利家の和解] 前田利家の跡取りで、その子の前田利長がこのことをひそかに細川忠興に告げた。細川忠興がいうには、(細川忠興)「なんと、貴公もまた治部(石田三成)に編されているのか」 前田利長は顔色を変えた。 細川忠興がいうには、(細川忠興)「貴公は私に話したのを後悔しているのか。前田家が今後立っていくかどうかは、ここに決まろうとしている。できるだけ誠実に相談をしなければならない。私は生きるも死ぬるも、貴公(前田利長)と一緒にする考えだ。貴公、心配することはない」と。前田利長が大いに悟っていうには、(前田利長)「貴公(細川忠興)がいなければ、とんだ目に遭うところでした。・・・・・・《どうか貴公から、家君(前田利家)に諌言してもらいたい」と。》現代語訳の出典・「日本外史」訳・頼惟勤・お茶の水女子大学名誉教授(1922~)「自筆の断層(MRI)写真」(断層画像MRI-21-3-B)「細香・湘夢」の2つの印は、江馬細香の落款。「序文の記載年号、落款、花押、及び隷書体の資料」写真右から隷書体の「曹全碑」写真。右から2番目は、序文末尾の拡大写真。日付左の印は、大垣藩医・江馬蘭斎の娘、江馬細香の号である「湘夢」の落款。右から3番目は、序文末尾に記された「文政十年(1827) 5月21日」の日付。その左が「湘夢」の落款。右から4番目が巻十六末尾下の「細香」の自筆署名と「湘夢」の落款。左端は、江馬細香・自筆の評価額・出典・「美術年鑑」古美術名家撰851頁(美術年鑑社・刊)「額縁裏面ラベルの表示」「美術年鑑の評価額」「江馬細香の肖像と自筆」上の写真は、江馬細香の肖像。手前が細香、右上が紅蘭(原図は江馬家所蔵)下の写真は、江馬細香の自筆の詩稿、三十九歳の時の漢文。校正個所は頼山陽

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